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学 校 物 語
礎を据えた生徒たちと地域の人々
夕陽丘中学校


昭和22年、天王寺二中として五条小で開校
自由研究で「大阪の物価に就て」など調査

 夕陽丘中学校は近鉄上本町駅から南へ数分も行ったところにある。
ここ上町台地の西縁までちぬの海が迫っていた大むかし、京の都からこの海辺に隠棲した藤原家隆が、”契りあれば、なにわの里にやどりきて、 波の入日を拝みつるかな”と詠んだ和歌にちなんで、このあたりを夕陽丘と称するようになったという。 時代は下って昭和初期、文豪・谷崎潤一郎は「細雪」で、「姉が現在住んでいる上本町と云うのは」と、あの蒔岡家四姉妹の本家を上本町9丁目に設定した。

 上本町界隈は文化の香り高い町として知られてきた。その一画に夕陽丘中学校は建つ。同校が天王寺第二中学校として発足した昭和22年といえば、 なお戦後窮乏の真只中で二回に及ぶ空襲の焼野原も広がっていた。4月21日、五条小学校の音楽室で、開講・入学式が挙行された。小雨降るうすら寒い日であった。 入学したのは、五条、生魂、桃陽、味原、真田山各小学校(国民学校)を卒業した男女294人の生徒たちであった。

 授業は五条小学校三階の六教室を借用して始められた。教科書は揃わない、紙一枚、チョーク一本ままにならない学校の実情に、心配した保護者らは、 開講間もない5月13日、教育後援会を結成し支援体制を固めた。会長には、新教育に高い理想と識見を持つ吉澤一郎氏が選出された。吉澤会長ら役員たちは私財を提供し、 発足直後の中学校の教育を支えた。

 新教育は生徒の自主性、主体性が重んじられた。「個性の赴くところに従ってそれを伸ばして行く」(学習指導要領一般論試案)自由研究という教科は生徒たちに人気が高かった。 天王寺ニ中では、水曜日午後の二時限分があてられた。生徒たちは熱心に調査し研究した。その成果を報告する生徒研究発表会が二ヶ月に一回開かれ、多数の保護者も参観した。 「英語と日本語」、「大阪の物価に就て」、「日本の育児方とアメリカの育児方」、「人間天皇」、「戦後日本人の道徳」、「粉食について」など当時の社会を反映するテーマに取り組み、 発表した。

昭和24年、校名改称、生徒集会で高津中と決定
清水谷高、生魂小校舎を転々と

 二期生が入学した昭和23年度は、清水谷高校や生魂小学校も借用して授業が行われた。 清水谷高校に入った生徒たちが教室から南東方向に目をやると一面の焼野原。寺の門、土蔵、土塀、墓石だけが荒涼とした風景のなかに浮かび上がっていた。

 昭和24年度は義務制完成の年である。3年目に入るので、単純に計算しても生徒数は初年度の3倍になる。このころになると疎開から復帰する市民も多く、 生徒数の激増することが予測された。実際、新学年が始まると、1376人(一年598人、二年425人、三年353人)24学級に上った。 生魂小に入った一年生は教室が足りないのでクラス数を圧縮し、一教室に67人も詰めこまねばならなかった。それも講堂を間仕切り、二教室をつくってのことであった。

 昭和24年5月1日、大阪市教育委員会はそれまでの行政区毎に番号を付していた校名を地域にちなんだ校名に変更するよう指導した。天王寺第二中学校は高津中学校と改称した。 PTAや教師などおとなの側は天王寺中学校と改めたかったようだが、天王寺一中が四天王寺に近いからと譲ってくれなかったという話が伝えられている。

 生徒たちの間でも、校名改称は強い関心を呼び、遂には生徒会で決しようということになった。生徒たちは、雨天体操場(清水谷高)で生徒集会を開いた。 もちろん、分校の生魂小からも生徒たちが集まってきたので、会場内は一千人をはるかに越え立錐の余地なき状況となった。そのなかで、真剣な討議が続けられ、 旧制高津中学にあやかる新制高津中学校が採択されたのだった。

 校章も生徒会で募集し、ある生徒のペンを組み合わせた応募作品が入賞した。
当時の子どもたちは、戦時期へのいやな思い出と敗戦直後の苦しい生活が重なるなかを必死で生き抜いていた。生徒たちの心のなかには”ペンは剣よりも強し” という格言が刻みこまれていた。だからペンを組み合わせたデザインは生徒たちの共感を呼んだのだった。

 校名決定の生徒大会に参加し、校章の来歴を知る二期生の中西広全さんは、あのころは生徒会やクラブ活動が活発で、勉強も生徒たちだけでやっていたことを思い出す。 それにしても、平和の象徴のペンのデザインがいつから剣に変わってしまったのだろうといぶかる。

昭和25年、桃丘小学校校舎に入る
学校用地選定、12月独立校舎建設起工式

 独立校舎の建設は、他校に比べると、遅れ勝ちであった。建設に乗り出そうとした矢先、占領軍によるインフレ抑制のための超均衡財政政策が実施され、 起債は許されないことになった。学校側は高津中学校PTA(河原利代蔵会長)、校舎設置促進委員会(竹村仁夫会長)をまじえて対策を話し合った。 その結果、学区内には夕陽丘高校以下三つも府立高校があり、高津高校の生徒を清水谷高校に移し、空いた高津高校を高津中学校に転用してもらうという案が浮上した。 高津高校は学区の中央にあり、通学一つ考えても最適であるとされ、教育委員会に嘆願書が提出された。

 当時、大阪市の特別市制が話題になり、そのうえ大阪軍政部による義務教育優先の指導が強力に行われていたので府立高校の市立中学校移管は実現可能と考えられた 。しかし、その案が陽の目を見ないままに昭和25年度が迫り、生魂校からは、児童増を理由に立ち退きを求められた。

 生徒の収容先を抜本的に改め、決定しなければならない事態に追いこまれた。そこで考えられたのが、占領軍撤退後、都島工業専門学校(のち大阪市立大学理工学部) が使用している桃丘小学校(昭和21年五条小統合)の校舎の利用であった。

 天王寺二中として開校したころ、教育後援会長を務めた吉澤一郎氏が、このとき天王寺区PTA協議会の幹事長の任にあり、あわせて天王寺区新学制実施協議会委員をしていた。 戦前、桃丘校の保護者会役員を歴任していたこともあって交渉を委ねられた。

 こうして、昭和25年4月旧桃丘校に本校を、清水谷高校に分校を置き、四年目を乗り切る体制を整えた。 その吉澤さんが昭和25年度PTA会長に選出された。開校以来、あちらの校舎、こちらの校舎と転々としてきた生徒たちを思い、 一刻も早く独立校舎を建設しなければならないと吉澤会長はPTA会員に呼びかけた。

 先ず、学校用地を探さなければならなかった。五条小学校と上宮高校との間に草茫茫の土地が広がっていた。そこを適地として決定した。 戦災地復興土地区画整地委員会の宮原堅二郎天王寺部会長の尽力で二千坪を校地として買収、昭和25年10月2日、「高津中学校建設用地」と刻まれた標柱が建てられた。

 やがて、三階建鉄筋校舎の建設が決定し、年末も押し詰まった12月27日、起工式が行われた。寒風吹き荒ぶなかではあったが、生徒会役員らも期待に胸ふくらませて参列した。 まだまだ貧しさの残る時代である。鉄筋三階建てという規模は、文部省や大阪市の基準をはるかに超えていた。だから、かなりの建築資金を地元で負担しなければならなかった。 PTA会長、実行委員らは校区を回り協力を求め資金を調達した。

昭和27年、再び校名改称、夕陽丘中学校に
昭和31年校歌制定、小野十三郎が作詞

 昭和26年8月13日、待望久しい独立校舎が竣工した。夏休みの終わりの一日、清水谷高校を借りていた二年生の生徒たちは汗水を垂らしながら机や椅子を運び入れた。 それまで、校舎を変わるごとに上町筋や寺町筋を重い机を持って幾度、行き来したことだろう、と教師たちも感無量であった。 「これが自分たちの学校なんだ」と教室の窓ガラスを撫でる生徒の姿が大島文男教諭の頭からしばらく離れなかった。

 昭和27年4月1日、真田山、味原小学校区の生徒を対象に、新たに天王寺区第三番目の中学校が開設された。校名をめぐって、歴代PTA会長、小学校長もまじえ協議されたが、 新設校を高津中学校、これまでの高津中学校を夕陽丘中学校と命名することになった。

 生徒大会まで開いて決定したという経緯があるだけに、新設校に由緒ある校名を持ち去られるようで、卒業生には容易に納得しがたいことだった。反対の運動も起きたほどである。しかし、長い年月を経て、夕陽丘は地域の歴史と文化にしっとりと溶け込んだ校名になっている。

 昭和31年2月、新校舎(第三期建設工事)と講堂が施行し、建設工事が終わった。名実共に、夕陽丘中学校が完成したのである。それを記念して校歌が制定された。 作詞を託されたのは、日本を代表する大阪在住の詩人、小野十三郎であった。彼は夕陽丘中学校の校歌を次のように格調高く歌いあげた。

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