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校 章 物 語 |
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昔、「文化祭」は隔年開催で、十何期生の頃でしょうか、その間の年に「三剣祭」をするようになりました。
「三剣祭」の名前の由来は校章です。三つ追いの形になった剣の校章からとった名前は、「自由・民主・平和」を象徴しているのだと、中学生の時は誇らしく思い、
卒業後は懐かしい響きと感じられている方もおられると思います。
ところが、平成六年一期生の大先輩より「三剣」に異議ありという寄稿があり、「剣」ではなく「ペン」であるらしい、という事になり「三剣祭」という文化祭行事も無くなってしまいました。
「三剣祭」を実行して来た者にとっては、寂しい感がありますが、この寄稿により、校章をデザインされた先生の意思が伝えられたのなら、喜ばしいことでないでしょうか・・・
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ペンが何時の間にか剣に ・・・異議あり
安藤 義信 (1期生)
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今年も同窓会開催の御案内を戴きましたが、毎年ながら、鎌田会長以下、役員方の御尽力には本当に頭が下がります。心底からお礼を申し上げます。本当は僕などもお手伝いしなければならないのですが、大阪を離れている事が何としても制約条件になって、歯痒い思いをしています。
ところで今年の開催日は11月6日。丁度母校の「三剣祭」と重なるとあって、黒岩校長からも参観のお誘いを受けているようですが、僕は改めて、この「三剣」という言葉に抵抗を感じました。それは、校章の由来についての誤解が長年継承されているからで、母校も近く創立50周年を迎えようとしている時期に、僕は、自分が記憶している真相を、関係各位、特に校史編纂の任にあたっておられる方に、是非、お伝えしておきたい気持ちになりました。何分古い事ですから、記憶には間違いもあるかも知れませんが、校章の制定経緯については、僕にははっきりとした思い出があるのです。
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昭和62年に発行された「創立40周年記念誌」の裏表紙には、校章の謂われについて、次のように書かれています。「校章の創案者は、曽根栄先生である。民主主義の精神をくんで、三つの剣に、自由・民主・平和を象徴して校章とした」と、あります。これが、現在、一般的に理解されている通説でしょう。しかし、事実は、下線部分に間違いがあります。 |
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曽根 栄先生は、五条国民学校の図画の先生で、僕ら(妻 紀子も)は、その当時から引き続いて指導を受けました。チョビ髭を生やし、今から思うと、終戦の混乱期には珍しい、絵描きさんの雰囲気を持った先生でした。ミロのヴィーナスやダビデの石膏像を前に、クロッキーをしたり、鉛筆での(木炭はなかった?)遠近法を教わりました。五条の図画教室は、西校舎の東側にあり、天窓があったのかなと想像する程非常に明るかった記憶があります。当時としては異例に開放感に満ちた授業でした。この先生には、時間外も、気軽に我々と相手をしてもらいました。今にして思えば、芸術の好きな、自由主義的思想の持ち主だったと思います。先生御自身も、戦争が終わって、ほっとされていたに違いありません。この先生は、「会誌」の旧職員名簿のお名前の記載がありません。ついでに言うと、英語の早川先生の名前も脱落しています。ひょっとすると、こういう特殊な学科については、臨時講師とか嘱託という扱いだった為に載っていないのかな、と想像します。図画専門の先生は、翌年以降に、松山、村治先生らが着任されるまで、居られませんでした。 |
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以下は、先生から直接に伺った、先生の校章についてのお話です。 |
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「矢印模様は、ペンを象徴している。戦争が終わって、これからは平和の時代になる。戈を収め、これからは言論で戦う時代である。ペンは剣より強し。という格言がある。矢印はそれを表現している。」 |
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「三つの矢印は、自由・平等・博愛を象徴している。」 |
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自由・平等というのは、僕らにも良く理解できましたが、「博愛」というのは馴染みの薄い概念だっただけに、どういう意味なのか当時良く分かりませんでした。それだけに、鮮明に記憶に残っています。今にして思えば、これはフランス革命の理想でありました。<曽根先生=画家→パリ画壇への憧れ→フランス革命を想起←日本の新思潮>という連想ゲームを考えて見ると、この事は非常に良く理解できるのです。これが何時の間にか、「自由・民主・平和」になってしまったのだと思います。「博愛」という概念が日本人には理解し難い概念だけに、そうなったのには、充分な理由があったものと想像できます。 |
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当時、この校章は、あまり好評ではありませんでした。
その頃の中学の校章というのは、中という文字を象形した、星型が大勢を占めており、その中に桜や梅の模様や天という文字などが入れられるのが普通でした。どことなくお寺や仏教臭さを連想させるデザインは全く風変わりで、人気はありませんでした。それが採用された理由としては、前述したような、高邁な理想が内包されていたからに他なりません。 |
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「イヤー・エンド・パーティ」から「文化祭」を経て、「三剣祭」になったのは、どうやら昭和40年前後の事らし
く推定できますが、それから30年近くも経った現在では、この名称も確固たる地位を占めているものと思います。今や、この名前に郷愁を覚える人達の方が遥かに多い事でしょう。しかし、その間違われ方が、ペンが剣になるという、
つまり、作者がそれからの時代に否定したかったもの、そのものになってしまったという皮肉を思う時に、私としては、
簡単に、そのままで放置される事に我慢ならないものを感ずるのです。僕がこの事実を知ったのは、3年前に「40周年記念誌」を拝見した時でした。「あまりに遅すぎたな」という思いでした。
「三剣祭」という名前を今後共継続するかどうかは、現在の学校関係者でお考え下されば結構です。 ただ、一度、昔の歴史を御承知戴いた上で、それを決めて戴きたい、曽根先生の理想を正確に認識して戴いた上で、判断して戴きたいのです。
各時代の理想というのは、変わって行くものだと思います。万古不易でなければならぬという事はないと思います。 ですから、三つの理想は、時々に新しくなって行って良いと思います。 ただ、ペンが剣になってしまう事には、相当の抵抗を感じるのです。 僕は堅物の平和イデオロギー論者ではなくて、もっと現実的で柔軟な思想の持ち主だと思っていますが、それでも以上のような感慨を抱きます。
幸いにも、現黒岩校長は、僕らより一期下で、創世記の雰囲気を良く御存知でしょうから、そういう方が居られる間に、
是非一度、御相談戴きたいと思います。
以上
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