阪神大震災から3ヶ月が過ぎましたが、夕陽丘中学同窓の方々の中にも被災された方もおられ、お見舞い申し上げます。私は大阪市此花区にある大阪暁明館病院に勤務し、脳神経外科患者を診ております。この病院に勤務する前は、神戸市立西市民病院に8年間勤務していました。神戸市立西市民病院は地震でその5階部分が崩れ、現在は解体されていて、かつて一緒に働いた友人達も病院を離れています。病院が早期に再建され、友人達が復帰できることを願っています。
地震のあった1月17日は、私は神戸の自宅にいましたが、住んでいるマンションが倒れるかと思うほどの揺れでした。家の中の物は倒れたりして混乱状態でしたが、マンションは何等損傷を受けませんでした。家族が無事であったことに安堵しましたが、大阪の病院が心配になり電話をしましたが全く通じません。私はやむなく午前7時に車で病院へと行くことにしました。2号線の道路を大阪へと向かいましたが、神戸市と芦屋市の2号線沿いの民家は崩壊し、毛布にくるまって呆然と佇んでいる人が数多くみられ、数人により運ばれる畳の上の意識ない人もおり、炎上する民家は放置状態で、悲惨な状態は西宮市まで続いていました。4時間かかって到着した病院は無事で、ほぼ正常な診療をしていました。当院にも地震により負傷した数人の患者が救急搬送されてきてましたが、その中には倒れた煙突の下敷きになり亡くなられた人もいました。しかし、大阪での地震の被害は比較的少ないものでした。地震当日の夜は、自動車で阪神高速道路の倒れている43号線を通って帰宅しましたが、電灯のついていない道路の暗さに驚きました。自宅では電気は通っていましたが、水道とガスは止まったままでした。翌日は神戸から自動車で大阪に向かいましたが、交通渋滞が著しく到底病院にはたどり着けないと判断し、自宅に戻り混乱した部屋の整理をし、生活水の確保のため走り回りました。この夜は、六甲小学校に被災した人たちが避難しているという事を聞きましたので、自宅にある毛布を小学校に持って行きました。六甲小学校は真っ暗でしたが、その講堂には被災した人たちが多くいるようでした(暗くて、人数は判りませんでした)。
1月19日は朝早くに、自動車で六甲山の北側を回って大阪へと向かい、比較的早く病院に到着しました。我が病院は正常の診療が出来ていましたが、神戸市や芦屋市の病院は停電、断水でその機能が停止しているとの情報が入っていましたので、我が病院でも地震で被災され負傷した方を受け入れるべく、当院内に地震対策本部が設置されました。病院職員の12人が自宅の損壊を受け、2人が負傷を負いました。職員の安否の確認とともに、負傷した被災者の受け入れ体制が整いました。私の神戸の知人の自宅が崩壊し、その娘さんが下敷きになり5時間後に救出され近医に入院しましたが、診療機能が停止している病院では娘さんはただベッドに寝かされているだけで、何等治療を受けていない状態であるので、なんとかして欲しいと家族の方からの電話がありました。その病院への電話連絡は不能でしたので、翌日の朝に当院の救急車に看護婦が同乗し、娘さんを当院に転院させるために神戸の灘区へと向かいました。帰ってきた救急車には娘さんの他に、10時間以上家屋の下敷きになっていた2人の患者も同乗していました。神戸の病院の実状が判りましたので、我が病院と大阪市内の関連病院の救急車2-3台で神戸市内の病院の患者さんをピストン輸送しました。1週間の間に60名の患者の搬送を行い、当院には30名の患者が入院し、他の患者は近くの病院に搬送しました。多くの患者は整形外科的処置を必要とする人たちでしたが、脳神経外科でも5人の患者を担当しました。被災し負傷した患者さんのほとんどは、放射線検査もされずにただ寝かされていたようでした。
こうした地震により負傷した患者の受けいれとともに、大阪の一般救急患者の診療もしていましたので、余りの忙しさのため病院内で寝泊りする日が何日も続きました。地震の2週間以後も、地震に関連した患者の診療が続きました。神戸の自宅が全壊し大阪に引っ越してきた娘さんの手伝いに来ていた70才の女性は、蜘蛛膜下出血による意識障害を来たして搬送され、夜間緊急手術を行いました(一か月後、全快され串本市の自宅に帰られました)。神戸市長田区の自宅が全壊した56才の男性は家族とは離れ、大阪の仕事場で寝泊りしていましたが、余りのストレスのため神経症となり刃物で自分の頸部を切り救急搬送されてきました。頸部の傷は処置され助かりましたが、2日後にはストレス潰瘍から吐下血を来たし貧血状態となりました。何とか内科的治療で治り退院されましたが、精神的ストレスは解決されていません。
現在、私は週に2-3日は自宅に帰れるようになりましたが、まだまだ忙しい日が続きそうです。阪神地区の早期復興を願って筆をおきます。
|