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 「雄飛」の期シリーズ 15
 オペラほど素晴らしいものはない
声楽家・俳優 山本隆則(16期

 夏に大阪に帰ると、かならず、あの夏を思い出します。一九八五年七月。大阪駅の横のJRの空地、熱天下の真っ黒なテント、その中の舞台で、10kgはある、暑くて重い、シャギーのじゅうたんの様な衣装を着て、週10回の講演に出演していた”Cats”の大阪初演。
 今でこそ、大阪にはたくさんのミュージカルの為の劇場があって連日の様に色々な作品が上演されていますが、当時の大阪は、それこそ、吉本以外は何もなかったに等しい所でした。
 我々も、東京では大成功を修めた”Cats”を大阪で上演するにあたって、大阪の人たちに一体どの様に受けとめられるのか大いに不安で、初日の公演はかなり緊張したものでした。
 1980年代、つまり30才代、私は劇団四季に所属し、毎年250ステージを越える公演をこなし、又、東京芸大の講師でもあり、劇団でもヴォイス・トレーナとして後進の指導もするという多忙な時代でした。
 この30才代になってやっと人並に家族5人が食べてゆける様になったという事です。
 四季に入る前は、芸大大学院を主席で修了し、オペラ会のエリートとして、二期会、その他のオペラ団で活躍してはいても、2ヶ月の稽古で、本番が二回だけというオペラ会の状況ではもちろん食って行けません。大学の講師料もしれたものです。それでなくても、23才で早すぎる結婚、28才ですでに3人の子持ち。私の双肩には、美しい妻と、3人の子供たちの幸福がかかっています。そりゃ2ヶ月の稽古で一年、食っていけるミュージカルの世界へ大接近するのは、あたりまえです。
 でも、今でも貧乏しても、やりたいものがあるとすれば、そりゃやっぱりオペラです。だけど現在、日本で上演されている様なオペラのためには、貧乏はしたくないという思いもありました。
 考えてみると、この不安定で、困難な職業を選択したのは夕陽丘中学を卒業して、星光学院に入った時でした。医者の長男として生まれた自分は、中学時代はとりあえず医者に・・・と考えていました。しかし高校受験で、公立の高津高校に入学を拒まれ「こりゃ医者はアカン」とあっさり方向転換をして歌の勉強を始めたのですが、その芽は中学時代にすでにありました、例えば、主要5科目の点数より、音楽の点数の方が気になっていたくらいですから。
 今は、四季を退団し、フリーになって六年ですが、ますますこの職業が気に入りもし、自分に合っていると感じます。月に3回、宝塚の美女達にレッスンを付けるのも楽しみだし、そのおかげで大阪に帰ってもこれるのもうれしい事ですが、それよりなにより自分の意志と能力があれば、自由とワガママが許されるからだと思っています。

近影 H14.2.3

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